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北岡用語解説集 (アーカイブ)

エッセイその七:『Homo Deus (神としての人類: 未来の歴史概観)』書評

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最新情報 1:ハラリ氏著『サピエンス』の北岡書評はこちらにあります: http://www.kitaokataiten.com/glossary/archives/essay_06.htm

最新情報 2:本ページで見られる「専門用語」は、ほぼすべて、「北岡用語解説集」で解説されています。

最新情報 3:今後、北岡用語解説集の「アーカイブ」セクションに、逐次、書き下ろしエッセイをアップしていきます。乞うご期待ください。

先日、「『世界的』ベストセラー」のユヴァル ノア ハラリ氏著『サピエンス全史: 文明の構造と人類の幸福』について書評を書かせていただきましたが、今回、同氏著の続編の『Homo Deus: A Brief History of Tomorrow (神としての人類: 未来の歴史概観)』(翻訳版は未刊行) を、英語で読了したので、引き続いて、その書評を書きたいと思いました。

『サピエンス』は、私は、「とんでもない大著」だと思いましたが、同じく 500 ページ超の『Homo Deus』も、「神の視点」から見た壮大な歴史書になっていると思いました。

(ちなみに、英語版の『Homo Deus』の初版は、2016 年 9 月に英国で刊行されているので、時期的に、もうすでに翻訳版が出版されていてもおかしくないと思いますが、『サピエンス』が現時点で国内でもけっこう (?) 売れているので、続編の翻訳本の出版が意図的に遅らされているのでは、という私の見方は、うがりすぎているでしょうか (笑)。あるいは、もしかしたら、続編は、正編以上に「ぶっ飛びすぎている」ので、国内では翻訳しても売れないと思われているのかもしれません (笑)。)

これほど「神」のような「広域的世界観」から書かれている本について、(その「メタの視点」(= 「神の神の視点」!) から) 第三者が概観を述べることは極めて難しいことですが (笑)、以下、私なりに、私見を交えながら、(断片的な概要になるかもしれませんが) 書評を書いてみます。

 

まず、先の私の『サピエンス』書評では、「『人類が神になる過程』を著した、ハラリ氏の続編の『Homo Deus: A Brief History of Tomorrow (神としての人類: 未来の歴史概観)』が、いったいどういう展開になるのか、今からワクワクしています」と書かせていただきましたが、私は、読書前は、『Homo Deus』では、「人類が神になった『後』に何が起こるか」について詳述されているのでは、と思っていましたが、実際には、「人類が現状から神になるまでに歴史的に何が起こるか、起こりえるか」についての分析・主張が 500 ページにわたって繰り広げられていて、「人類が神になった後に何が起こるか」についての言及はほぼなされていない書でした。

仮にもしハラリ氏の「続続編」があるのなら、「人類が神になった後に何が起こるか」について詳述がなされるもの、と個人的に期待しています。

『Homo Deus』は、「序文: 新しい人間の課題」、「第一部: 世界を征服する人類」、「第二部: 世界に意味を与える人類」、「第三部: 制御不能になる人類」の四部構成になっています。

 

「序文」では、人間の「生命・幸せ・力」の側面において、歴史上人類を苦しめてきた「飢餓・疫病・戦争」が、人間社会の驚異的な経済成長と科学的発見のおかげで最終的に克服され、これらの「害」を生み出しているとされていた神の権威が失墜する過程の中で、神ではなく人間一人一人の個人的人格を神聖化する「ヒューマニズム (人間中心主義)」が過去 300 年間世界を支配してきているという分析がなされています。

さらに、人間中心主義は、「不死・至福・神性」を神聖化してきていましたが、人間が獲得することが理想とされていた、これら三位一体の目的が、実際に、21 世紀の遺伝子工学、再生医療、ナノテクノロジー、コンピュータ サイエンス等を通じて最終的に実現されそうになっていることが指摘されています。

 

本書の「第一部」では、征服者としての人間と被征服者の動物の関係がかなりの紙面を割いて分析されていますが、これは、歴史的な「人間と動物」の関係性と将来の「超人 (超高度情報化サイボーグもしくは『神としての人類』) と人間」の関係性の間に類似性がある、と著者が考えているからです。

以下、「第一部」のハラリ氏の主張の概要です。

1) 農業革命によって、人間は、家畜動物の主観的必要性を無視しながら、その生存と繁殖を保証する力を獲得した。

2) 感情は、すべての哺乳類の生存と繁殖にとって、死活的な「生化学アルゴリズム」である。

(北岡注: ハラリ氏の言う「アルゴリズム」は、意味的には、NLP 等の「プログラミング」に近いですが、極めて洞察に富んだ特殊な用語ではないかと思っています。おそらく、「アーケタイパル プログラミング」あるいは「神の法則」に近い意味で使われていると思われます。)

3) 農耕社会では、神々が、神への捧げ物として人間が動物を家畜化する正当性を与え、人間と生態系の間の仲介者として機能したが、科学革命を通じて、人類は、神を失墜させ、人間中心主義のもと、科学・化学・生物学の法則を解明しながら、「ワンマン ショー」を演じ始めた。

4) エデンの園では、人間は、好奇心のために神によって罰せられたが、ニュートンが林檎を通じて万有引力を発見した庭園では、その好奇心のために人間としてのニュートンが罰せられるどころか、宇宙の理解が深まる「工学的楽園」が始まるきっかけとなった。今後、生物工学、ナノテクノロジー等を通じて、科学者は人間を神へとバージョンアップするであろう。農業革命では、有神論的宗教が生み出されたが、科学革命を通じて、人間が神に取って代わる人間中心主義的宗教が生まれた。

5) 動物にも、人間に似た主観的体験があるはずだが (北岡注: 日本人には、動物に対する仏教的「哀れみ」があると思われますが、合理的なキリスト教的文化圏の国々では「動物には、感情も、主観的体験もない」と信じている人々が数多くいるようで、ハラリ氏は、このことの妥当性に関する検証に必要以上に多くの紙面を割いています)、人間が他の動物を支配するようになった決定的要因は、道具を作る能力や高度な知性というよりも、「人間どうしを結び付ける能力」を獲得したことにある。動物の協力は、個体どうしの信頼関係のケースにとどまっているが、人間の場合は、大多数の人々と相互協力できるようになった。

(北岡注: 実は、ハラリ氏は、正編の『サピエンス』で、人間が「言語」を発明したのは、「ゴシップ (井戸端会議)」をするためだった (笑)、という実に興味深い指摘をしています。すなわち、人間は、ゴシップをしながら、共同体のどのメンバーが信用でき、どのメンバーが信用できないかについての情報を共有できるようになった、ということです。言語によって、初めて、人類は、直接的な個体どうしの信頼関係しかもてない動物社会を超えて、「不特定多数」の人々と「共同幻想 (仮想現実)」としての協力関係が築けるようになった、というハラリ氏の指摘には、計り知れない意味合いと妥当性があると思います。ちなみに、インターネットを通じて、不特定多数の個々人が仮想現実の中で互いに関係できるようになり、かつ、「2 チャンネル」その他で (意図的な誤情報を含め) ゴシップの会話ができるという構図と、ハラリ氏の人間言語の誕生に関する分析の構図が対応していることも、興味深いです。)

6) 現実には、「客観的現実」と「主観的現実」の他にも、第三の「間主観的 (intersubjective)」(北岡注: この用語は、ほぼ「共同幻想」と言い換えても問題ないと思います) と呼ぶべき現実がある。「間主観的経験」は、多くの人間の間の相互コミュニケーションから成り立っている。たとえば、客観的価値のない貨幣は間主観的現実である。ギリシャの神々、帝国、異国文化も、間主観的現実としての虚構の中にしか存在していないが、「我国」、「我神」、「我価値」も、同じく虚構であることを受け入れることは、通常なかなか難しい。

7) 人生の意味が作られるのは、多くの人々が虚構として「共通の物語の網」を編んだときであり、大規模な人間の協力体制が築き上げられるのは、例外なく、関与者が虚構としての秩序を信じ込んだときである。人類が世界を支配できているのは、「意味の間主観網」、すなわち、共同幻想の中にのみ存在する法律、権力、本体、時空の網を構築することができているからである。十字軍、社会主義的革命、人権運動等を組織化できるのは、この網を作り上げることができる人間だけだ。言い換えれば、言語を使って、完全に新しい現実を創出できる人類が過去 7 万年間の間に作り上げた間主観的現実は、あまりにも影響力をもつようになって、現在、世界を支配するまでに至っている。

 

本書の「第二部」では、宇宙は人類を中心にして回っていて、人間がすべての意味と権威の源である、とする人間中心主義の基本理念の意味合いについて、経済的、社会的、政治的分析がなされています。

以下、「第二部」のハラリ氏の主張の概要です。

1) 人類は、(上述の)「三層の現実」の中に生きていて、人類の世界には、樹木、川、恐怖、欲望だけでなく、貨幣、神、国家、企業が含まれている。

2) 1 万 2 千年前に始まった農業革命によって、「間主観 (共同幻想) 網」を拡張し、強化するために必要な材料が揃った。ただし、初期の農耕民族がデータ処理能力として頼った人間の脳には限界があった。その後、偉大なる神々の物語を信じ始め、神殿を建て、祝祭をあげ、生け贄を捧げ、土地と年貢と贈り物を納めるようになる中で、5 千年前にシュメール人が発明した文字と貨幣によって、人間の脳のデータ処理能力の限界が破られた。

3) 文字のある社会では、各人が巨大なアルゴリズムのごく一部の役割を果たし、全体としてのアルゴリズムが重要な決定を行うようになった。これが、官僚社会とは何か、の本質である。

4) 人間の協力関係網は、真実と虚構の間に微妙なバランスが取れることに依存している。現実を歪曲しすぎると、明晰な競争相手に勝つことはできない一方で、ある程度虚構としての神話に依存しないと、大衆を組織化できない。虚構のない純粋な現実だけに固執すると、ほとんど誰もついてこない。虚構は悪いものではなく、不可欠である。貨幣、国家、企業等の共同幻想としての物語がなければ、複雑な社会は、うまく機能することができない。ただし、物語は道具にすぎず、目的や判断基準になってはならない。

5) 現代社会の科学的理論も、新しい神話の一種であると言えるが、歴史的に、古代エジプト王や中国の皇帝は飢餓・疫病・戦争をなくすことはできなかったが、現代科学社会は、それを成し遂げた。ただ、あくまでも、事実が神話に取って代わったのではない。科学は、「間主観的現実」を破壊するかわりに、「間主観的現実」が客観的現実と主観的現実を今まで以上に完璧にコントロールすることを可能にさせた、という意味において、逆に、神話をさらに強固なものにしてしまった。

6) 宗教は、人間の法律と規範と価値に超人的な正当性を置く総合的な物語のことであり、超人的法律を反映するという理由から社会構造を正当化する、という意味で、宗教は「取引」である。その一方で、「私は誰か?」、「人生の意味は何か?」、「善とは何か?」といった問いから始まる「精神主義」は、未知の目的地に向かう「神秘的な旅」である。

7) 宗教的物語には、ほぼ必ず、「i) 『人間の生は神聖である』といった倫理的意見」、「ii) 『人間の生は懐妊時から始まる』といった事実に関する意見」、「iii) 『懐妊の後 1 日後でも堕胎はしてはいけない』という実践的指針」が関与している。

8) 宗教は、科学的研究に対して倫理的正当化を与え、そのかわりに、科学の課題と科学的発見の用途に影響を与える。このため、宗教的信念を考慮せずに、科学の歴史を理解することはできない。また、宗教の興味は秩序にあり、科学の興味は権力にある。

9) 近代性は、非常に簡単な「取引」にある。取引契約の内容は、「人間は、権力を得るために意味を放棄することに同意する」に集約される。近代生活は、意味のない宇宙の中での絶え間ない権力の追求から成り立っている。

10) 歴史的に、信用の経済的具現化である「信用貸し制」が生まれたとき、近代の爆発的な経済成長が可能になった。「飢餓・疫病・戦争」の問題が解決できたのは、この経済成長のおかげだった。

11) 伝統的な世界観では、世界には、原材料とエルギーの二種類の資源しかないと考えられていたが、実際には、原材料とエルギーと情報の三種類が存在している。すなわち、聖なる聖書と古代伝統にすべてが含まれていると信じた前近代的人間文明は、新しい知識を求めようとはしなかったが、科学革命後は「無知であることの発見」の時代となり、一度、世界についてほとんど何も知らないということを認識した人間は、突然、新知識を求め始め、科学的進歩の道が開けた。

12) 歴史的に、神の死は、社会の崩壊に繋がらなかった。人間中心主義によれば、人間は、自分自身の内的経験から人生の意味と宇宙全体の意味を引き出す必要がある。

13) 人間中心主義は、人間の一人一人は単一の真正な自我あるいは感情をもっていると想定しているが、通常は、沈黙か競う合う複数の声の不協和音が存在している。この問題を解決するために、人間中心主義は独自の公式を提唱した。すなわち、中世ヨーロッパでは、知識の公式は「知識 = 聖典 x 論理」であったが、科学革命では「知識 = 経験データ x 数学」の公式が提唱され、その後、人間中心主義では、「知識 = 経験 x 感受性」の公式が提唱された。

14) 人間中心主義は、正統的な「自由主義的人間中心主義」(もしくは「自由主義」)、社会主義、共産主義運動を含む「社会主義的人間中心主義」、ナチス主義を含む「進化論的人間中心主義」の三つに分類される。当初は、これら三分類の人間中心主義の差異はマイナーだったが、人間中心主義が世界を制覇するにつれて、内部分裂が顕著になり、歴史上もっとも破壊的な「宗教戦争 (北岡注: 20 世紀の二つの世界大戦のことです)」が生み出されてしまった。

15) 21 世紀の初頭、さらなる進歩が達成されようとしていて、その後は、人類は人類でなくなるだろう。生命工学とコンピュータ アルゴリズムの時代である 21 世紀の主要製品は、肉体、脳、知性になり、肉体と脳を設計できる者とできない者の差は、人類とネアンデルタール人の差以上になるであろう。21世紀では、進歩の列車に乗る者は、創造と破壊の神的能力を獲得し、後に残された者は絶滅の危機に直面するであろう。

16) 伝統的な宗教は、人間中心主義の代替オプションにはなりえない。聖典には、遺伝子工学や人工知能に関して言うべきことは何も書かれていないし、聖職者の大部分は生物学やコンピュータ サイエンスの最新の発見を理解していない。これらの発見を理解するためには、古代の文献を記憶し、議論するかわりに科学的記事を読み、研究室で実験する必要がある。ただし、人間中心主義はあぐらをかいているわけにはいかない、というのも、科学者が発見していることが、意図しない形で自由主義的な世界観の固有の欠点を露わにするかもしれず、遺伝子工学や人工知能の潜在性が完全に実現されたとき、もしかしたら、自由主義、民主主義、自由市場といったものが、ナイフ形石器、カセット テープ、イスラム教、共産主義といったもの同じくらい時代遅れになる可能性があるからだ。

 

本書の「第三部」では、21 世紀において、人間中心主義を実現しようとする試みが失敗に終わり、「不死・至福・神性」の模索が、そのように人間性への信仰の基盤を揺るがすことになるか、について考察がなされています。

以下、「第三部」のハラリ氏の主張の概要です。

1) 2016 年の世界は、個人主義、人権、民主主義、自由市場等の自由主義的要素が支配している。その中で、人間の自由意志は、倫理的意見ではなく、事実に関する意見に関連した問題であり、生命科学の最新の発見とは相容れず、実験室の「厄介者」になっていて、科学者はこの問題にあえて深入りしようとはしていない。神経細胞の放電は、外部の刺激に対する決定論的な反応、もしくは放射性原子の自然分解のような偶発的事象の結果、のいずれかなので、殺人を引き起こした者の脳内の電気化学的プロセスは、決定論的か、偶発的であったとしても、決して自由でない。自由意志は、人間が作り上げる虚構の物語の中だけに存在している。

2) 極めて重要な問いは、人間はそもそも自分の欲求を選ぶことができるかどうか、だ。人間は、決定論的なプロセスによって、特定の推論を行うことができるが、その結果ある特定の政党に投票することになる内的思考を「自由に」選ぶわけではない。人間は自分の欲求を選んでいるのではなく、単にその欲求を「感じた」上で、それに従って行動しているだけである。

(北岡注: 私は、「人間の意識には、単に思考の流れしか存在していない」というハラリ氏の立場には完全同意しますが、ただ、その流れを見ている人は誰ですか、脈絡のない思考群としての数珠を束ねている糸としての「中心的超越者」は誰ですか、というシャンカラチャリヤ式認識論的な質問が残ると思います。この超越者は、必然的に、「思考群を超えた何か」です。ここに、唯物論と唯心論の分かれ目があります。)

3) 人間には、少なくとも、「経験する自我」と「物語る自我」の二つの異なる自我が存在している。経験する自我は、瞬間瞬間の意識であり、経験の後は何も記憶していないので、主要な決定をするとき意見を求められることはほとんどない。大きな決定は、すべて、物語る自我によってなされる。

(北岡注: 経験する自我は NLP の 4Te (現在意識) に、物語る自我は 4Ti (過去意識) に対応すると思われます。)

4) 物語る自我が作り出す虚構が自分自身もしくは周り人々に実際に害を引き起こしたとき、i) 単にそのまま虚構の中にい続ける、ii) 妄想から覚める、iii) 現実の行動に意味を与える唯一のものとして、あえて妄想に固執する、の三つの選択肢がある。通常、虚構をもちながら生きる方が簡単だが、これは、虚構が苦しみに意味を与えてくれるからだ。

5) 物語る自我は、すべての経験に永続的な意味があるような、終わりのない物語を構築することで、混沌に秩序を押し付けようとする。しかし、どれだけ説得性があったとしても、この物語は虚構である。中世の十字軍戦士は、神と天国が人生に意味を与えたと信じ、現代の自由主義者は個人の自由意志が人生に意味を与えると信じているが、これらの信念は、両方とも妄想である。人間は「認知的不協和音」の達人であり、ダーウィンが『種の起源』を刊行した日にキリスト教が消滅しなかったように、科学者が個人に自由意志はないと結論づけたからと言って、自由主義者が姿を消すわけではない。

6) 自由市場と民主的選挙制に対する自由主義者の信仰は、21 世紀の次の三つの実用的局面によって、時代遅れになる可能性がある。i) 人間は経済的、軍事的有益性を失い、経済および軍事体制は人間に価値を置かなくなる、ii) 体制は独自の個人ではなく、集合的な人間に価値を見い出すようになる、iii) たとえ体制が一部の独自の個人に価値を見い出すことがあったとしても、その対象は一般大衆ではなく、グレードアップした新しい超人のエリートだけである。

7) 今後、コンピュータが意識や感情や感覚をもち始めることはないかもしれないが、現在、重大な革命が起こりかけていて、人間は、知性 (情報処理) と意識との分離によって、経済的価値を失う危険に超面している。これまでは、知性と意識は帯同していたが、現在、チェス、自動車運転、病理診断等の作業を人間以上に適切に、早く処理できる新しいタイプの「意識のない知性」が開発中である。これらの作業は「パターン認識」に基づいていて、もうすぐ「意識のないアルゴリズム」がパターン認識に関して人間意識を超える可能性がある。すなわち、知性は必須だが、意識は任意になる。

(北岡注: 私は、今後コンピュータが意識をもつことはないであろう、という立場にいますが、個人的には、「シンギュラリティ」は「AI が人間を超える瞬間」というよりもむしろ「知性が意識から分離する瞬間」と定義し直した方がいいのでは、とも思っています。この意味でのシンギュラリティはすでに到来しています。)

8) 人間は、「意識のないアルゴリズム」が超えることのできない独自の能力を常にもっているという考え方は希望的観測にすぎない。この夢物語に対する現代科学の答えは、次の三つの原則である。i) 生命体はアルゴリズムである (人間を含むすべての動物は、何百万年もの進化の自然淘汰が構築した有機的アルゴリズムの総体である)、ii) アルゴリズムの計算は、計算機の材質に左右されない (算盤の材質にかかわらず、2 玉 + 2 玉 = 4 玉である)、iii) このため、有機的アルゴリズムができることで、非有機的アルゴリズムが複製、凌駕できることは何もないと考える根拠が存在しない (計算が妥当なかぎりにおいて、アルゴリズムの表現形態は炭素でもシリコンでもありえる)。

9) 今後、人間はどんどんコンピュータ アルゴリズムに取って代わられていくであろうが、タクシー ドライバーや心臓学の専門医等の特殊専門職は AI に取って代わられていく可能性は高い一方で、古代の狩猟家・採集家のような非常に広範囲の技能の習得が必要な場合は、ロボット化は難しくなる。

10) 産業革命は、19 世紀に多数の都市型プロレタリア階級を生み出し、この階級のニーズと希望を満たす形で、社会主義が広まった。自由主義が最終的に社会主義を打ち破ったのは、社会主義的計画の最善の部分を取り入れたからであった。21 世紀には、多数の新しい「非労働階級」が生み出されるであろう。経済的、政治的、芸術的価値がなく、社会の繁栄と権威と栄光に何も貢献しない、この「役に立たない階級」は、失業者になるだけでなく、雇用不可能になるだろう。

11) 極めて重要な問題は、人間がアルゴリズム以上のパフォーマンスを達成できるような新しい仕事を作り出せるかどうかである。伝統的モデルはすぐに時代遅れになるので、人間は、人生にわたって学習を継続し続け、何度も自分をリニューアルする必要が出てくる。多くの人間は、そういうことをすることはできないであろう。

12) 自由主義者の想定は、科学からの次のような挑戦を受けている。i) 人間は、独自ではなく代替可能で、単一の内的声もしくは自我を欠いた、多数のアルゴリズムの集合体である、ii) 人間を構成するアルゴリズムは、遺伝子と環境から形成されていて、決定論的もしくは偶発的であるが、自由でない、iii) 外部のアルゴリズムは、個人が自分を知っている以上のことを知ることができる可能性があり、このようなアルゴリズムは、常に正しく、投票者や顧客に取って代わりうる。

13) 21 世紀の科学技術によって、アルゴリズムが人類を「ハッキング」することが可能になるかもしれない。そうなると、個人主義の信仰が崩壊して、権威は、個別の人間からネットワーク化したアルゴリズムに移行する。人々は、自分の欲求に従っている自立した存在ではなくなり、電子アルゴリズムのネットワークによって常に監視されている生化学的機械の集合体になり、個人の自我は、数学的パターンに還元される。このことが起こるためには、外部アルゴリズムは、個人のことを完全に知る必要はない。本人以上に本人のことを知っていて、本人よりも間違いを犯すことが少ないだけで充分である。

14) 20 世紀の人間プロジェクトの目的は飢餓・疫病・戦争の克服だったが、21 世紀の新プロジェクトの目的は不死・至福・神性の獲得である。ただし、新プロジェクトは、規範の保護よりも凌駕を目的としているので、19 世紀の黒人に対する西洋人のような、自由主義を放棄した、新しい超人階級が作られる可能性がある。

15) おそらく実験研究室から生まれるであろう新宗教は、アルゴリズムと遺伝子による救済を約束して、世界を制覇することであろう。シリコンバレー発のこの宗教は、幸せ、平和、繁栄、場合によっては永遠の生命といった旧来の目的を、死後の天上の存在ではなくて、地上の科学技術を通じて、約束する。なお、この新宗教は、「科学技術人間中心主義」と「データ宗教」の 2 タイプに分かれる。

16) 「科学技術人間中心主義」は、現在の人類は歴史的役割を終え、未来には妥当性をもたなくなるだろうが、科学技術を使って「神としての人類 (Homo Dedus)」を作り出すべきであると主張している。神としての人類は、基本的な人間の特徴は維持するが、もっとも洗練された意識のないアルゴリズムにも対抗できる、グレードアップした身体的、精神的能力も有することになる。知性は意識から分離していて、意識のない知性は猛スピードで発展しているので、人間は、仮にゲームを続けたいのであれば、積極的に自分の脳機能をグレードアップする必要がある。

17) 7 万年前の認識革命によって、人類の脳が変容して、取るになりないアフリカの猿が世界の支配者になった。この間、人類は、間主観現実 (共同幻想) の巨大な領域にアクセスできるようになり、神、企業、都市、帝国を作り、文字と貨幣を発明し、原子分割、月面着陸を可能にした。この驚愕的な革命は、人類の DNA のわずかな変化と脳の微妙な配線替えから生まれた。そうであるならば、ゲノムのちょっとした追加の変化と脳の配線替えが、第二次認識革命を起こすのに充分だろう。第一次認識革命の脳の変化で、人類は、間主観の領域にアクセスして、惑星の支配者になったが、第二次認識革命を通じて、神としての人類は、想像不可能な新領域にアクセスして、銀河系の支配者になるかもしれない。

18) 21 世紀初頭、自由主義的人間中心主義が科学技術人間中心主義に取って代わられるにつれて、医療の焦点は、病人の治療ではなく、健全者のグレードアップに注がれてきている。医者、エンジニア、患者は、精神的問題の治療だけでなく脳機能のグレードアップを求めている。現在、我々は、新しい意識状態を作り始める技術力を獲得しつつあるが、これらの潜在的な新領域の地図をもっていない。この状況下で、我々は、地図なしに突進して、現在の政治経済体制が必要とする精神的能力をグレードアップして、他の能力を無視するかグレードダウンするかもしれない。

19) 「データ宗教」すなわち「データ主義」は、動物と機械の壁をなくし、電子アルゴリズムが最終的に生化学アルゴリズムを解明した上で、それを凌ぐことを期待する宗教である。データ主義は、コンピュータ サイエンスと生物学を母としているが、生物学がデータ主義を取り込むことを通じて、コンピュータ サイエンスの限定的な発見が、生命の質を完全に変えてしまうような大変革に変容した。仮にもし生命体はアルゴリズムであるという考え方に同意できないとしても、これが現代科学の教義であり、世界を認知不能の形まで変えていることを知っておく必要がある。専門家は、経済さえも、欲求と能力についてのデータを収集し、そのデータを決定に変えるための機構と見なすようになっている。

20) ゴルバチョフが、ソ連経済を立て直そうとして側近を英国に視察派遣したとき、この側近が一番驚いたのは、パン屋や食品雑貨店の前に市民の列がなかったことで、「ロンドンにパンを供給している責任者に会わせてください」と政府担当者にリクエストしたら、担当者は、少し考えて、「ロンドンへのパン供給を担当している責任者というものは存在しないです」と答えたそうである。これが、資本主義の成功の鍵である。ロンドンへのパンの供給に関してすべてのデータを独占している「CPU (中央処理装置)」は存在していない。情報は何百万人の間に自由に流れ、市場実勢によって、パンの価格、毎日のパンの製造量、研究開発製品の優先順位が決められる。

21) データ主義の観点から言うと、人類全体をデータ処理システムと見なし、個別の人間をその電子部品と見なすことが可能である。もしそうであれば、歴史全体を、次の 4 つの方法でこのシステムの効率性を改善するプロセスとして理解することも可能である。i) プロセッサの数を増やす (たとえば、都市の住人の数を増やす)、ii) プロセッサの多様性を増やす (異業種間の交流を増やす)、iii) プロセッサの接続点の数を増やす (貿易網内の都市の数を増やす)、iv) 既存の接続点における情報の移動の自由度を増やす (都市間の道路が整備されても、追い剥ぎがいれば、商人と旅人は自由に行き来できない)。

22) データ主義者は人間中心主義者に対して、「たしかに、神は人間の想像物だが、人間の想像物は、また、生化学アルゴリズムにすぎない」と主張する。

23) 本書を読了後も、どうか次の 3 つの問いを問い続けていただきたい。i) 「生命体は本当にアルゴリズムで、生命はデータ処理にすぎないのか?」、ii) 「知性と意識のうち、よりたいせつなのはどちらか?」、iii) 「意識はないが、高度な情報処理が可能なアルゴリズムが個人について、本人以上のことを知っている場合、社会、政治、日常生活にいったい何が起こるか?」

* * * * * * *

以上が、ハラリ氏著『Homo Deus』の大著を私なりに理解した概要ですが、以下の追記があります。

まず、『Homo Deus』全ページをもっとも適切に象徴しているのは、「生命体はアルゴリズムである」という簡潔な格言です。この一文は、人類が神になった後も、永久に歴史に残っていく名言だと思います。

ちなみに、上記で、私は、「北岡注: ハラリ氏の言う『アルゴリズム』は、意味的には、NLP 等の『プログラミング』に近いですが、極めて洞察に富んだ特殊な用語ではないかと思っています。おそらく、『アーケタイパル プログラミング』あるいは『神の法則』に近い意味で使われていると思われます」と述べましたが、「プログラミング」と「アルゴリズム」には、前者では、入力 (トリガーとなる刺激) と中の演算と出力 (結果としての行動) はあらかじめ決まっているが、後者では、ある特定の入力をもとになされる演算は、たとえば「ディープ ラーニング」の際のように、学習によって無限に有機的に細分化・洗練化されていくので、その変化する演算の結果としての出力は常に異なったものになる (これは、グリンダー式 NEW コード NLP の原則と同じである、と言っても語弊はないと思います!)、という決定的な差があるようにも思えます。

思うに、20 世紀前半に世界を席巻したフロイト式精神分析は、究極的には、18 世紀にワッツが開発した蒸気機関の動力学的メカニズムをモデリングした深層心理学だった一方で、20 世紀の最後の四半世紀に世界に広がった NLP は、20 世紀前半のパブロフ、ワトソン、スキナーの (行動心理学的な)「条件反射」のメカニズムと初期の基礎的コンピュータ モデルに基づいた実践的心理学でした。その意味で、ハラリ式データ主義 (特に「生命体はアルゴリズムである」という格言) をモデリングした 21 世紀の新しい「有機的心理学」が生まれてもおかしくないのかもしれません。

また、正編の『サピエンス』の私の書評では、以下のように書かせていただきました。

「『「カウンターカルチャー」的思考形態』と『近代ヨーロッパ帝国の『認識的拡張主義」』はイコールで結ぶことができると思います。

かりにこの等価公式が妥当性をもって成立するのであれば、国内では、正式に輸入もされないまま死語になっていて、誰も理解できなくなっている『カウンターカルチャー』の概念を、国内の人々に対しては、『認識的拡張主義』と言い換えていけばいいだけということになります (笑)。」

(なお、「『カウンターカルチャー』的思考形態」と「近代ヨーロッパ帝国の『認識的拡張主義』」の等式の両項目は、結局のところは、「常に自分自身のボックス (既成概念、世界地図、パラダイム) から抜け出て、自分自身のアイデンティティと意識を無限に拡張していける能力」を意味している、と定義可能です。)

私が『サピエンス』でもっとも深い洞察を受けたのは、この「『「カウンターカルチャー」的思考形態』=『近代ヨーロッパ帝国の「認識的拡張主義」』」の等式でしたが、『Homo Deus』では、「認識的拡張主義」について記述は、上述の「科学革命後は『無知であることの発見』の時代となり、一度、世界についてほとんど何も知らないということを認識した人間は、突然、新知識を求め始め、科学的進歩の道が開けた」の箇所以外には、特にありませんでした。

ただし、『Homo Deus』でもっとも重要なハラリ氏の主張の一つは、言語によって、人類は、歴史上初めて、同種族の構成員間で「間主観的経験 (すなわち、共同幻想)」を作り出して、「不特定多数」の人々と協力関係が築けるようになった、という点にありますが、私個人は、この主張と「認識的拡張主義 (すなわち、『カウンターカルチャー』的思考形態)」の間には、密接な関係があると考えています。

すなわち、上記に「[共同幻想である] ギリシャの神々、帝国、異国文化も、間主観的現実としての虚構の中にしか存在していないが、『我国』、『我神』、『我価値』も、同じく虚構であることを受け入れることは、通常なかなか難しい」とありますが、この「『我国』、『我神』、『我価値』」を「『我言語 (日本語)』、『我町内会』、『我出身校』」等に置き換えてみると、日本人は、おしなべて、いかに自分のアイデンティティ (というよりも、自分が自分のアイデンティティと信じ込んでいるもの) への執着から逃れられていないか、がよくわかると思います。

思うに、日本人は、伝統的に農耕民族で、ハラリ氏の言う「過去 300 年間世界を支配してきている」「神ではなく人間一人一人の個人的人格を神聖化する『ヒューマニズム (人間中心主義)』」の「洗礼」を受けないまま明治維新以降近代化に突入したことが、あくまでも外から与えられている「間主観的経験 (共同幻想)」としての自分自身のアイデンティティを、「認識的拡張主義」に基づいて相対化できる西洋人と、「間主観的経験 (共同幻想)」として社会共同体 (あるいは「お上」) から「アプリオリ (先験的)」に与えられたものである自分自身のアイデンティティを相対化できかねる日本人、の間の「決定的な差」を生み出しているのではないでしょうか (さらに言うと、ここには、人間中心主義的な個人的人格の威厳を重要視する、まさにその西洋人が個人的アイデンティティを比較的容易に相対化できるのに、社会共同体 (「お上」) から「共同体の一部」として与えられたものにすぎない「『前』人間中心主義」的な自分自身のアイデンティティを日本人がなかなか相対化しづらいことには、極めて興味深い逆説があります)?

さらに言うと、本書の第三部では、人間はアルゴリズムの集合体であり、個人が自分を知っている以上のことを知っている外部アルゴリズムは、常に正しく、投票者や顧客に取って代わり、そして、このことで、人間は自立した存在ではなくなり、常に監視する電子アルゴリズムのネットワークの一部になる、という主張をハラリ氏は行っていますが、語弊を恐れずに言うと、過去において人間中心主義の洗礼をまともに受けていない日本人は、歴史的に、「この外部の『大いなるもの』への明け渡し」は、当たり前のことのようにすでに行ってきていて、その達人ではないか、とも思えます (笑)。ただし、もちろん、日本人と西洋人のこの「精神的明け渡し」のし方には、決定的な差があり、それは、日本人の場合は、自分を明け渡す対象を「盲目的に信じる」傾向がある一方で (私は、個人的には、これは危険だと思っています)、西洋人の場合は、これまでの人間中心主義、個人主義の追求を極めたら、「論理的結論」として、個人を本人以上に知っている外部の数学的アルゴリズムにすべてを任さざるを得ない、という諦観のニュアンスのある、逐次「すべて自分自身で理性的に納得」しながら行う明け渡しです。前者では、個人は責任を放棄していますが、後者では、どこまでいっても、個人の判断の責任は、その本人にとどまり続けています (実は、Youtube 動画等でハラリ氏自身が示唆していますが、同氏が『Homo Deus』を書いた理由は、人間は過去の歴史を学んだ上で未来の歴史を作り出すことができるので、「私の人類の未来の歴史予想はこういうものですが、さて、読者の皆さんは、その予想をもとにどうされますか?」という、個人的責任に基づいた判断を求めている提言です)。なお、私は、個人的には、「個人の判断の責任は、その本人にとどまり続け」ることと「認識的拡張主義 (すなわち、『カウンターカルチャー』的思考形態)」は、表裏一体をなしていると考えています。

 

「とんでもない歴史書」の正編・続編としてのハラリ氏の『サピエンス』と『Homo Deus』を読了した私は、今後、「神としての人類」になった時代に、「生命体アルゴリズム」によって日本人が「非選民」として抹殺されないようにするためには、「すべての個人的体験は『間主観的経験 (共同幻想)』であることを (左脳的知識としての『エキステーメ』としてではなく、全脳的知識としての『グノーシス』として) 知った上で、『認識的拡張主義』に基づいて、常に『仮説・実行・検証』のサイクルを回しながら、永遠に自分自身のアイデンティティを拡張していく」ことしか、他には方法はないと考えています。

幸いにも、(『サピエンス』の書評にも書かせていただいたように) 「私が過去 30 年にわたって研究・教授してきている NLP と、その発展系である私独自の『実践的顕魂学』は、まさしく『認識的拡張主義』の精神を個々人の実際の生活でいかに具現化できるかのためにだけ開発された『実践的方法論』であり」、北岡ワークが、「すべての個人的体験は『間主観的経験 (共同幻想)』であることを (…) 知った上で、『認識的拡張主義』に基づいて、常に『仮説・実行・検証』のサイクルを回しながら、永遠に自分自身のアイデンティティを拡張していく」方法論そのものであると、考えています。

この「壮大」なビジョンをもった上で、私は、Apple、Microsoft、Google、Facebook、Amazon 等の CEO が基盤としている「カウンターカルチャー」的思考形態 (すなわち、「認識的拡張主義」) の精神を個々人の実際の生活で具現化させることで「国際的イノベータの育成」を図る「カウンターカルチャー経営手法」を提唱させていただいています。

なお、今後、私は、「国際的イノベータの育成」関係のセミナー・勉強会等を開催していきたいと思っていますが、その際の「主要教科書」の教材として、英語版の『Sapiens』と『Homo Deus』の二冊が使われる予定です。